12月16日号
北口開発 工業の町に発展 JR東海道線「野洲」

町の発展著しい野洲。駅からは三上山(右奥)が見える
 野洲駅は、朝が早く、夜の遅い駅である。姫路行きの始発は午前4時44分、そして上りの最終が到着するのは、翌日の午前1時34分と、眠る時間の少ない駅なのだ。

 京阪神へ通勤・通学する人たちに大変ありがたいダイヤなのは、駅に隣接する電車基地の恩恵である。

 駅の営業開始は、明治24(1891)年6月16日(野洲町史)。橋上駅となったのは昭和47(1972)年で、その2年前に電車の基地ができ、野洲駅を始発・終着とする電車が増える。工場誘致に伴う北口の開発もこれと呼応しており、以後、野洲は工業の町、京阪神のベッドタウンとして発展する。

 昔の駅周辺はどうだったか? 南口の近くで酒店を営む鷲田平一朗さん(81)は「駅前の道は、朝鮮人街道と交差する所まで道幅が広く、両側に柳並木があった。一面田んぼから変容を遂げた北口と異なり、南口の様相は基本的には変わっていない」と、昭和10年代の様子を話してくれた。

 「銅鐸(どうたく)のまち」を看板にする野洲は、歴史に彩られた町だ。野洲川は万葉集にも出てくる。平家終焉(えん)の地や福林寺跡磨崖仏、本殿が国宝、楼門と拝殿が重文の御上(みかみ)神社など、歴史探訪の場所には事欠かない。

 散歩中のお年寄りに「見る価値がある」と勧められ、桜生(さくらばさま)史跡公園に足を運んだ。大岩山古墳群の天王山、円山、甲山の3つの古墳が史跡公園として整備され、玄室や石棺なども見ることができる。この公園、旧中山道沿いにあり、直下を新幹線がごう音を上げて走っている。1500年の時空を超えた光景といえる。

 希望が丘文化公園=写真下=、近江富士花緑公園という2つの県立公園は今も観光のドル箱であり、人が絶えない。

 野洲、中主両町が合併して誕生した野洲市は、人口約5万人。市になったからといってすぐに観光客が増えるわけではない。が、中主側にも庭が国の名勝という兵主大社や、真宗木辺派の本山・錦織寺、オートキャンプ場のマイアミ浜などがあり「一体となったPRで観光客増を…」と期待する向きもある。


 野洲のシンボル、近江富士・三上山(432メートル)は、ハイキングコースとしても人気が高い。富士と名のつく山は全国に多いが、江戸期の地誌「近江輿(よ)地志略」にはすでに「三上山、俗に呼んで近江の富士という」とあり、昨今出来た呼称ではないことがわかる。

 30年間も三上山の写真を撮り続けている八田正文さん(72)は、先ごろ仲間8人とともに自身では4冊目となる三上山の写真集「近江富士まんだら」を出した。

 自宅に三上山の写真を展示、公開している八田さんは「家の中からでも見える三上山は、私にとってもはや生活の一部」と笑った。

 忘年会のシーズン。町が寝静まった午前1時34分。野洲駅に到着した最終電車から降りた乗客は、駅前広場に停まっているタクシーに、あるいは迎えの車にと駆け込む。

 そして野洲駅は、今日も“浅い眠り”につく。

銅鐸博物館〔野洲市歴史民俗博物館〕(野洲市辻町)

 野洲市小篠原の大岩山から明治14(1881)年に14個、昭和37(1962)年に10個、合わせて24個の銅鐸が見つかった。この中には日本最大のものもあり、「銅鐸のまち」として野洲の名を全国に発信するきっかけになった。
 古代史の謎とされる銅鐸のルーツを探り、解明に迫ったのがこの博物館。野洲出土の銅鐸の実物とレプリカなどを中心に展示しているほか、明治の発見時の様子なども資料によって解説している。月曜休館。有料。
 また、隣接の弥生の森歴史公園には竪穴住居や高床倉庫が再現されている。

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