8月26日号
赤瓦の屋根 どっしり 近江鉄道「鳥居本」

赤い瓦屋根の小さな駅舎は、昭和初期のレトロな雰囲気が漂う
 中山道の宿場町として栄えた鳥居本に、鉄道が開通したのは1931(昭和6)年。赤い瓦の腰折れ屋根とストーブ用の高い煙突が特徴の鳥居本駅舎は、幾度かの改修を重ねながら開設当時と変わらない姿を伝えている。昭和初期の平均的な私鉄駅舎の建築様式に倣ったというが、今では保存の対象にしたいような風格さえ漂う。

 一日の平均乗降客は、昭和42年のピーク時の約900人を境に減少の道をたどり、昨年の集計で344人。開業当時の364人をも下回り、昨年4月からは嘱託駅員による通勤・通学時の改札業務も廃止されて、全くの無人駅になった。

 彦根から電車に揺られて1駅目、昼下がりの鳥居本駅に降りたのは一人きり。鳥居本中学の生徒たちが、総合学習のフィールドワークで駅周辺のゴミ集めをしているのに出会った。道案内を請うまでもなく、目の前の国道8号の信号を渡って10メートルも行けば、そこがかつての鳥居本宿。北に向かって矢倉川を渡ると北国街道との、また南端の旧百々村は彦根道(朝鮮人街道)との分岐点にあたる交通の要衝で、江戸時代には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠(はたご)35軒を数える宿場町としてにぎわった。

 旧街道の面影をとどめる格子構えの仕舞屋(しもたや)が続く町並みを歩いてみると、町はまるで息を止めたような静けさ。かつて道中合羽(がっぱ)を製造販売した店の跡を記す「本家合羽所」の木製看板を今も掲げる家々=写真下=、それと見てすぐに旅籠のたたずまいをしのばせる建物や、300年にわたって健胃薬「赤玉神教丸」を商う有川薬局の風格のある屋敷など、時折行き交う車を無視してしまえば、タイムマシンで時代をさかのぼったような錯覚に陥りそう。しばし現代の生活と切り離された時空にさまよう気分を味わった。


 「ここの名物は赤玉神教丸と合羽、それにスイカでした。この3つを“鳥居本の三赤”言うてましたが、いま残っているのは赤玉だけです。私らの娘時分はまだ合羽を干していて風に吹かれて飛んでいるのを見たりしましたが、戦後間もなくなくなりましたなあ。スイカもいつの間にか作る人がいなくなりました」

 昔の旅籠を転用して開設している「デイサービスセンター鈴の音」で、地元の岩崎美津子さん(79)がこんな思い出話をしてくれた。

 最後に、鳥居本駅には「ようおこしやす 中山道・鳥居本宿へ」というイラストマップ付き、無料配布の案内パンフレットが置いてあるのを紹介しておこう。無人駅なので気付かない人も多いようだが、初めての町を歩くにはやはり、“先達はあらまほしけれ”。制作者は駅前に本社を置くサンライズ出版の岩根順子社長。じつは岩根さんの生家は1832(天保3)年創業の合羽所・木綿屋である。

 「鳥居本宿は全国的にみても、宿場町の面影を自然体で残している珍しい例ではないでしょうか。町の歴史と文化を皆さんにもっともっと知ってほしい」と岩根さん。

摺針峠(すりはりとうげ)・望湖堂(彦根市中山町)

 旧中山道の鳥居本宿から番場宿にかけての峠。磨針峠とも。中山道随一の名勝で、ここから眺める琵琶湖を画題として歌川広重ら多くの絵師が作品を残している。名前の由来は、若き日の弘法大師が志半ばで京都を去ろうとして峠を通った時、針が折れたのでおのを研いで作っているという老婆の姿を見て感じ入り、再び学業に励んだと伝えられる説が有名。参勤交代の大名や朝鮮通信使の一行などが一服した峠の茶屋・望湖堂には、皇女和宮や明治天皇も立ち寄り休息された。かつての建物は平成3年に焼失。再建した現在の家の玄関脇に、「明治天皇磨針峠御小休所」の石碑が残る。

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