8月5日号
スポーツのメッカ 歴史刻む 京阪電鉄石山坂本線「皇子山」

西大津駅との乗り換え駅として存在感を増す皇子山駅
 地名「皇子山」は、壬申(じんしん)の乱(672年)で大海人(おおあまの)皇子に敗れ、近くで自殺した大友皇子に由来する。

 その名を背負う皇子山駅の開業は戦後間もない1946(昭和21)年3月。1974(昭和49)年には、国鉄湖西線が開通。同時に西大津駅がすぐ近くに誕生した。

 当然、今では両駅間の乗り換え客が多い。西大津駅で降り、この皇子山駅から大津市内各駅へ行く人々、その逆をたどる人々…。

 今春には、駅舎を坂本方向に50メートル寄った湖西線高架下に移設。これで西大津駅がさらに指呼の間に近づいたことになり、一層乗り換え駅としての印象が強まった。乗降客は通勤・通学を中心に1日4、5千人。時には6000人台にも。

 湖西線高架下のホームだが、屋根がある。

 電車を降りてから改札口への通路は、車いすなどにも配慮したスロープだ。

 改札口の手前には、皇子山中学の生徒たちが作成した壁新聞「皇中きっぷ」=写真下=が張られており、地域に密着した駅、の感が強い。

 「学内行事の記事を楽しんでおられるお客さんもあります」と駅員さん。

 駅を出てすぐ左。たった18段の階段だが、脇にエレベーターがある。高架沿いに西大津駅へと至る歩行者・自転車専用道路とともに、大津市が整備した。

 「助かります」と、エレベーターに乗りながら、足が不自由だという年配の男性がにっこり。

 駅前から東の琵琶湖方向を眺めると、高層マンションが林立し、そのすき間に夏空がのぞいている。


 目をほんの少し南へ転じると、スタンドの形からそれと分かる皇子山球場が見える。正式名称は皇子山総合運動公園野球場。高校野球や、プロ野球オープン戦でおなじみだ。

 その隣には皇子山陸上競技場や県立スポーツ会館もある。テニスコートやプールなども。そう、皇子山地域は滋賀県のスポーツのメッカでもあるのだ。日曜・祝日はそんな服装の乗降客も目立つという。

 線路越しに西を見やると、京滋を隔てる山地と、その山中へ消えてゆく湖西線の高架が目に入る。時々、列車がごう音をたてて行き来している。

 「屋根付きの道なので、雨の日も便利なんです」という女子高校生たちにつられて、200メートルばかりの歩行者・自転車専用道路を歩き、西大津駅前へ。38階建てのマンションに驚かされた。

 方向を転じて皇子山総合運動公園へ。ここで散策を楽しんでいた地元育ちの南治さん(64)に興味深い話を聞いた。

 「小学生のころ、一帯は米駐留軍の居留地でした。夜でも兵隊が、まばゆいほどにグラウンドを照らしてソフトボールやアメフトをしていました。私が中学、高校と陸上や野球に打ち込んだ原点は、あの光景にあったのかも…」。

 米軍用地は返還運動の結果、1962(昭和37)年に返され、現在の運動公園のもととなった。

 大友皇子にまつわる古代史から進駐軍にまつわる戦後史まで、皇子山には深く歴史が刻まれている。

弘文天皇陵(大津市御陵町)

 大津市役所の裏山にある。大友皇子、つまり弘文天皇の陵。

 大友皇子は、大津に都を移した天智天皇の第一皇子。天智天皇の死後、天皇の実弟である大海人皇子と壬申の乱で皇位を争った。大海人皇子は、約1カ月の戦いの末、大友皇子の軍を破り、大友皇子は大津・長等山の山前という所で自殺。大海人皇子は即位し、天武天皇となった。

 「日本書紀」では大友皇子が壬申の乱の前に即位していたことを認めていないが、明治初め、正式に671〜672年の在位が認められ、弘文が諡号(しごう)となった。陵へは皇子山駅より次の別所駅の方が近い。

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