7月22日号
昔日の面影 色濃く残す JR湖西線「堅田」

湖西線第2位の乗降客。せわしげに人やバスが往来する堅田駅
 JR湖西線が開業してから「堅田駅」周辺は大きく変ぼうし、大津市の副都心として躍進を続ける。その一方で、数々の歴史に彩られた昔ながらの面影を、今なお色濃く残し、観光客らを魅了してやまない。

 京都駅からは約30分ほど。駅にして6つ目で「堅田駅」に着く。ホームから見渡せば西側に比叡山や比良山系の深緑の山並み、東側にはきらめく琵琶湖…と、美しい景色がパノラマ状に展開し、見飽きない。

 湖西線の堅田駅は昭和49年7月20日に開業した。一帯は田んぼ。当時を知る人たちは「そんな真ん中に出来た駅だった」という。以来三十余年を経て、駅を挟んだ両側には、住宅やビル、マンションが立ち並び、駅前や近くを走る国道161号などには大型量販店や商店街も出来、田園風景を一変させた。

 堅田駅の職員によると「現在、1日の乗降客数は約1万4000人。県内の湖西線全20駅の中では、西大津駅に次いで2番目に多い」そうだ。3年前の秋には快速に加えて特急停車の駅となり、さらに京阪神への通勤が便利になった。「近年のベッドタウン化とともに、乗客数は増加傾向にある」(同職員)という。

 そういえば湖西線の他の駅に比べ、通学の学生や買い物の主婦、高齢の夫婦、それに中年の女性グループらの出入りが結構多い。観光案内所の窪田さんに聞くと、特にシーズンの週末は京阪神や地元の中年女性、夫婦連れら史跡巡りの観光客が目立つという。何気ない日常に、活気あふれる朝の一面が見てとれる。

 堅田地区は「湖族の郷」ともいわれる。中世から湖上交通を支配し、自治都市として栄えた。物資の集散はもちろん、当時の大宮人、武人、高僧に文人墨客らが往来した。その名残が琵琶湖沿いの町を南北に走る通称「浜通り」に点在する。駅前から徒歩で10分程度の距離だ。


 平安時代に湖上の安全を祈願し建立され、近江八景「堅田の落雁(らくがん)」で有名な浮御堂、比叡山との対立で本願寺を追われた蓮如上人が身を寄せ、再起の場所とした本福寺、とんちの一休さんが青年時代に修行し、悟りを開いた祥瑞寺=写真下=、それに「堅田源兵衛の首」の逸話がある光徳寺、湖上特権を得て堅田党首を司った居初(いそめ)家「天然図画亭」など、周辺に歴史や文化を秘めた寺院、神社が集中する。

 中でも松尾芭蕉はこれらの寺院をしばしば訪ね、幾多の俳句を残す。本福寺での一句に「病雁の夜寒に落て旅寝哉」がある。俳句が趣味という奈良の80代の夫婦は「晩年の哀調帯びた句、芭蕉の姿がまぶたに浮かびます」と感想を漏らした。句といえば一茶も、現代の岡本一平、三島由紀夫、城山三郎らの文学碑も立ち、郷の魅力を伝える。

 最近、あらためて湖族の郷・堅田の歴史、文化を全国に発信しようという動きも盛ん。パンフ発行、シンポ、イベントなどを通じ、新たな町づくりを模索する。そんな郷の新しい息遣いを肌に感じ、また、ゆっくりここに足を運ぼうという気にさせてくれた。

野神神社(大津市今堅田)

 後醍醐天皇に仕えた美女・勾当内侍(こうとうのないし)と御所警護にあたる武士・新田義貞の悲恋物語が伝わる。時は戦乱の世。後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏の上洛で、義貞は愛する内侍を堅田に止め越前に向かうが、2年後の延元3(1338)年7月、藤島で落命。義貞との再会を待ちわびた内侍は、悲観と絶望から湖に身を投じる。内侍の非業の死を哀れんだ今堅田の人たちは石塚を築き、未来永劫(えいごう)に供養することにした。今も命日になる10月8日に内侍の霊を慰める例祭が営まれる。明応6(1497)年、現在の神社が建立され、墓などを祭る。

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