2月3日号
“芭蕉”も観光客お出迎え JR東海道線「石山」

新しく完成した立体広場には松尾芭蕉の像が立つ
 1日平均の乗降客は約4万6000人。県内では2番目に利用者の多い駅である。

 駅南口の光景は、ここ2年ほどで大きく変わった。バスが発着する従来の駅前広場とは別に、橋上駅に合わせた広いスペースの立体広場が出来たからだ。さらに京阪石山駅が西へ170メートルほど移動して橋上化され、この立体広場とドッキング、JRと京阪の両石山駅が、広場で結び付いた。

 立体広場には大津をこよなく愛した俳聖・松尾芭蕉の立像があり、観光客らを歓迎する。駅周辺には著名な名所、旧跡が数多い。あらためてこの駅が石山・瀬田観光の玄関口であることを感じる。一角にある駅観光案内所にいた佐藤富子さん(59)に、行き先案内の多い所を尋ねると「石山寺、瀬田の唐橋、岩間寺、建部大社などなど」との返事だった。

 石山駅の開設は明治36(1903)年。駅南西側に広大な敷地を造成していた東レが、昭和2(1927)年から生産を開始、それまで何もなかった駅周辺が急速に発展する。

 南口から町へ出ると、旧東海道筋に石山商店街があり、多くの商店が軒を連ねている=写真下=。戦後活況を呈してきた商店街も、消費行動や取り巻く環境の変化などにより今や昔日のにぎわいはない、という。2軒あった映画館も消えて久しい。「昔のようなにぎわいは無理としても商店主が勉強、お客さんに喜んでもらえる店にしなければ」と石山商店街振興組合の古尾谷博理事長(59)はいう。毎日おびただしい本数のバスが通り抜け、近くに新しいマンションも立つ。どう足を止めさせるかがカギのようだ。


 住民に親しみをもってもらおうと、同組合の女性部有志が毎月手作りの小冊子「おかみさんだより」を発行するなど奮闘している。

 商店街を南下して行くとやがて鳥居川の十字路である。東海道と石山寺道の分岐点で、南進すれば石山寺に至り、東に折れると壬申の乱(672年)以降、幾多の戦乱の舞台になった瀬田の唐橋が見え、建部大社に至る。江戸期、鳥居川には立場(たてば)と呼ばれる休憩所が設けられ、茶店が並び、瀬田シジミなどの名物が旅人の人気を呼んだという。

 立体広場に像があった芭蕉は、元禄3(1690)年、約4カ月間、同駅から南西へ1・4キロ、国分の地の草庵で過ごし、あの「幻住庵記」を書いた。庵跡の碑は、近津尾神社境内にあり、すぐそばに近年再建の幻住庵がある。句碑も立ち、芭蕉の心が伝わってくるような雰囲気がある。

 石山寺、岩間寺とも西国三十三霊場の札所、建部大社は近江一の宮と呼ばれる古社である。

 駅北口から出ると関西日本電気などの工場が並ぶ。旧東海道がその横辺りを通っており、近江八景「粟津の晴嵐」の地がある。

 かつては広重の版画に見られるような松並木だったが、今では粟津中学付近に何本かの松があるだけ。近年、湖岸に「粟津の晴嵐」の碑が立ち、この光景が復元されている。

 ともあれ、石山駅のかいわいは、古代から近世に至る歴史散策が存分に楽しめる地域である。

今井兼平の墓(大津市晴嵐2丁目)

 今井兼平は、源平の合戦で名高い源義仲(朝日将軍・木曽義仲)の乳母子(めのとご)で、寿永3(1184)年1月21日、粟津原の合戦で義仲が討ち死にすると、後を追って自害した、と『平家物語』は伝えている。

 もともと墓は粗末な塚で、もっと山手にあったが、江戸前期、膳所藩主によって墓石が造られ、東海道に近いこの地に移されたという。

 「今井四郎兼平」と彫られた墓石は、敷地の奥、石柵に囲まれてある。

 敷地内には、墓石のほか兼平の末裔(まつえい)らによって建立された灯籠(とうろう)や記念碑などが幾つもある。

 昨年3月、大津市史跡に指定されている。

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